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「時間」「才能」「努力」、そして仏教に「生きる」

掲載日: 記事No.71

今回は「永遠の零」などの作品で有名な作家、百田尚樹氏のコラム「新相対性理論」から紹介させていただき、仏教の教えに照らして考えてみました。

 

「天才」とは「時間の使い方がうまい人」、人類の歴史は、「時間との戦い」であったと私は書いてきました。これは有限である寿命を持った人類の宿命でもあります。

だから人間社会のすべてのことは実は「時間」が基準になっているのです。ただ平均寿命が大幅に延びた現代人はそのことを忘れています。

たとえば私たちの社会において、「才能」や「能力」を持った人間は高く評価されますが実はこれも「時間」が基準になっていることを、多くの人は気付いていません。

幼い頃に「勉強ができる」「スポ-ツができる」「歌や踊りができる」といった才能に秀でた子は、一流の学者になったり、有名スポ-ツ選手になったり、人気スタ-やアイドルになったりしますが、この「才能」とは何かということを、皆さんは考えたことがありますか。「才能」を定義づけするとしたら、どのようなものだと思いますか。

私は「才能とは、同じことをするのに、他人よりも短い時間でやれる能力」と定義しています。たとえば普通の人が三時間かけてやることを一時間でやってしまう。あるいは十年かかることを数日でやってしまう。これは別の見方をすれば、他人よりも多く時間を使えるということです。

たとえば普通の人の半分の時間で作業を終えてしまえる人は、同じ時間を与えられた場合、普通の人の倍の作業がやれるということです。その能力を極端に持っている人が「天才」と呼ばれる人たちです。私たちが逆立ちしても勝てないわけです。

この最も極端な例が、楽器演奏に見えます。クラシックの一流ピアニストやヴァイオリニストは幼い頃の英才教育でしか育たないというのは常識となっています。現代の一流ピアニストやヴァイオリニストのすべては、幼い頃の神童です。逆に言えば神童でなければ一流にはなれないということです。私のような凡人には悲しい現実ですが、クラシックの名演奏家に大器晩成はありません。

その理由はまだ脳生理学で完全に解明されていませんが、幼児期の脳の成長と深くかかわっていることは間違いないようです。つまり幼児期はピアノやヴァイオリンの楽器演奏の能力が急速に伸びる時期なのです。

このことは私たちも経験的に知っています。大人になってからピアノやヴァイオリンの練習を始めても、なかなか上手くなれないからです。

それだけにピアノやヴァイオリンを上手くなろうと思えば、幼児期にしっかりやっておくほうがいいのです。というか、効率が全然違います。幼児期の一時間は大人の数時間、いやもしかすると数十時間に匹敵します。言うなれば「黄金の時間」です。

ピアノやヴァイオリンは極端な例ですが、実は「黄金の時間」は誰しも持っています。皆さん、子供時代を思い返してください。幼い頃には上達も物覚えも早かったでしょう。

そう、スポーツも学業も同じです。まさに「鉄は熱いうちに打て」というやつです。

私たちの社会では、天才、あるいは才能や能力のある人は高く評価され、またそれに見合うだけの報酬を受け取りますが、それは私たちが潜在的に、「時間の大切さ」を知っているからにほかなりません。時間の使い方が異常に上手いともいえる「天才」は、だからこそ多くの人の尊敬を集めるのです。私たち周囲でも「仕事ができる」という人の多くは、仕事が早い人です。

ところで、読者の中には「才能」には「努力」で対抗できるのじゃないか、と思われる人もいるかもしれません。

たしかにそれは間違いではありません。普通の人の半分の時間でやれる「才能」ある人に対しては、倍の時間をかければ並ぶことができます。三倍の時間をかければ追い抜くことができます。けれどもそうやって努力できるのも実は「才能」なのです。

人間というものは、筋肉を使うと疲労しますが、実は脳も精神も同様で、使いすぎると疲労します。そうなると効率も落ちます。これは「時間」が私たちに与える負荷です。

ところが中には、いくら筋肉や脳や精神を使っても、たいして疲労せず、また効率も落ちない人がいます。また異常に回復が早い人もいます。そういう人は普通の人以上に努力することが可能です。これは「時間に打ち克つ人」とも言えます。私たちの社会では、当然ながらそういう人も評価されます。

つまり「才能ある人」というのは時間を短縮することに優れた人であり、「努力する人」というのは時間を投入することに優れた人と言えます。

人がある業績を残した場合、それが才能によって為されたものか、努力によって為されたものかは、実はほとんど区別されません。どちらにしても、その結果というのは、その人物の「時間」の使い方にあるというわけです。ウサギであろうとカメであろうと、ゴ-ルに辿り着けばいいのです。

前に私は、人は皆、生活のために自分の売って生きていると書きました。同じ時間を売るなら、少しでも高く売りたいというのは当然です。

人そのために子供時代や少年時代に、自分の価値を高める努力をします。これは「時間」の投資と考えることができます。自らの「時間」の価値を上げれば、それを高い価格で売ることができるからです。

たとえばプロ野球のイチロー選手は、アメリカのメジャーリーグで大活躍し、巨万の富を手にしましたが、彼が小学校二年生から六年生まで、雨の日も雪の日も、一日も休まずに父と一緒にバッティングの練習を続けたのは有名な話です。

もちろん彼には野球の才能が抜群にありました。その才能ある少年が、野球のために子供時代の時間をたっぷりと注ぎ込んだのです。これは時間を株に例えれば「買い」です。彼はひたすら「黄金の時間」を買いまくったのです。その総額は大変なものになりました。その結果、二十年後、「売り」に回ったときに、とてつもない額になったというわけです。

これは野球に限らず多くの分野で言えることです。私たちもまた、成人してから「時間」を少しでも高値」で売却するために、「時間の投資」を行っています。勉強もその一つと言えます。

 

如何でしたか。百田氏の考えは人が成功する為のもっともな適切な「時間」の考え方を述べておられます。なるほどと感心する事しきりです。

 

扨、仏教ではどうかと言いますと「生きる事はどう死ぬ事か」と言われるように損か得、成功するか失敗するかでその人に与えられた「命の時間」を考えてはいません。

生きるのではなく不思議な力に「生かされている」事を感謝し、「その日その日を精一杯生きよ!」と教えています。

つまり「人として精一杯生き切る事」、そしてその事が人として生まれた意義であり、幸せだと説いています。

結果は百田氏と同じ様に見えますが、「時間」の使い方を社会で成功するか、あるいは成功、失敗と簡単に判断するのでなくただ自分自身が「生きる」中で充実した時間を使えたかとの違いではないかと考えます。

どちらにせよ皆様が「時間」や「生きる=生かされている」という事ついて真剣に考えていただけたらと思います。

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