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新型コロナウイルスと「生死無常のことわり」

掲載日: 記事No.72

今回は、福田寺と関連する施設、木田幼稚園で配布しています子育て情報紙、「ないおん新聞・編集室だより」を紹介させていただきます。コロナウィルスと仏教の「死生観」を対比した、とても考えさせられる内容です。(*わかりやすいように一部変更しています)

 

「ないおん編集室より」

新型コロナウイルス感染症が世界中にひろがっています。世界や経済への影響にとどまらず、私たちの命そのものにまで、深刻な影響を与えています。

思えば先行きの見えない、命の危険を感じながらの営みは、先達方がこれまで幾度となく経験されてきたことでした。浄土真宗の宗祖・親鸞聖人の晩年の生活は、まさにそのような状況にあったことが、お手紙に記されています。

 

なによりも、去年・今年、老少男女おほくのひとびとの、死にあひて候ふらんことこそあはれに候へ。ただし生死無常のことわり、くはしく如来の説きおかせおはしまして候ふうへは、おどろきおぼしめすべからず候ふ。

(『浄土真宗聖典(詿釈版)』771貢)

 

このお手紙は文応元(1260)年11月13日付けで、常陸の乗信房へ出されたお手紙です。日付の分かっている聖人の最後のお手紙として知られています。聖人が88歳の冬に書かれたお手紙ですが、そこには厳しい言葉で、私たちの命の事実について記されています。

この世に生を受けた瞬間から、私たちは死すべき命と定められている存在です。しかしその死は、いつどのようなかたちで訪れるか知れないことを、すでにお釈迦様は「生死無常のことわり」としてお説きになられました。だからこそ、「死なない者が死んだのではない。死すべき者が命を終えていったのであるから、それは決して驚くべきことではない」と、聖人はまことに厳しい言葉でおっしゃっていかれたのです。

実は、このお手紙を書かれた文応元年の前年は正元元年で、わずか1年で元号が変わっています。そして文応元年の翌年は、さらに弘長元年に改元されています。実はこの時期、日本各地では天変地異が起こっていたからです。そのせいで全国的な大飢饉と疫病が蔓延し老若男女、無数の方々が命を落としていかれる悲惨な状況にありました。そのような状況を眼前にしながら最晩年の聖人が渾身の想いを込めて書かれたのが先のお手紙だったのです。

ややもすると、「生きていることを当たり前と思い、命を終えていくことを驚きと受け止めている自分がいます。」しかし普段忘れがちになっていますが、本当に驚くべきことは、いつどうなってもおかしくない私が、いまここに生かされている事実です。

だからこそ私たちは、自らの命の事実を、仏法を通して確認させていただくのでしょう。そして、「後生の一大事」といわれる私のいのちの往き先を、「南無(まかせよ)阿弥陀仏(われに)」の仰せのなかに聞かせていただくのです。

「変化してやまない無常の境界に生きる私、確かなものなど何一つ持ち合わせていない私」、だからこそ確かな仰せが届けられています。

 

 

皆様、どの様に受け止められましたでしょうか。2016年、アメリカのビル・ゲイツ氏が「第3次世界大戦は戦争でなく未知のウイルスとの戦いになるだろう」と予言したように、現在、世界中で多くの人々を苦しめている新型コロナウイルス感染症の一刻も早い収束を願いつつ、いま私たちに届けられている「南無阿弥陀仏」の仰せを、改めて私たちそれぞれの身に聞かせていただきたいと思います。

合掌

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