諸事雑務に追われ、中々文章を更新できず申し訳ありませんでした。
昨年も、新たに多くのご門徒様がご浄土に旅立たれました。特に福田寺の法務聞法にご尽力いただきました懐かしい、ご老女の皆様との別れは格別の思い出一杯です。
平成元年より住職として20年、力強く心の支えになってくださった方々です。ご門徒の皆様にもそれぞれの別れがあったことかと思います。身近な肉親、友人 などなど、老齢で、病気で、思わぬ事故で、死を迎える覚悟ができている方も、思わぬ「まさか!」と「死」に対面された方もあったかと思います。
先日、書家で詩人の相田みつを先生の書物に目を通していますとこんな一文に出あいました。
だ ろ う
昨日も無事に過ぎた 今日も平穏に終った だから あしたも平穏無事だろうーと、
<だろう>を当てにして なんとなく生きているのが わたし達、凡人の
毎日ではなかろうか? 明日のいのちを保証された者は この世に一人もいないのだ
明日どころか、しゅんかん先の いのちの保証がないのだ それが人間
それがこの自分なのだ
ついこの間 海外旅行のおみやげを 持ってきてくれた知人が 今日は亡くなった
という通知を受けて わたしはガクゼンとした
明朗快闊、健康そのものの人であった それなのに いつも当てにならない
<だろう>を 当てに生きているわたし この自分 自分のいのちは
いつでもどこでも いまここにしかない いまここが充実しないかぎり
充実したいのちはない いまここが充実しないかぎり 充実した人生はない
たいせつなことは いまここを 具体的に どう動きどう充実させてゆくか-
ただそれだけである
<だろう>は 当てにならないから・・・ <だろう>は 当てにならないのだ
新しき年、今日からこそ、この今を、悔いなく、全力で生きて生きたいものです。