トップページ > ・彦根藩主も眺めた白と鶴亀 滋賀県彦根市・玄宮園

中日新聞Web版の滋賀県で掲載された記事(https://www.chunichi.co.jp/article/1026866)に当寺由緒である滋賀県米原市にある福田寺が紹介されております。

皆様にお知らせいたします。ご興味がおありになるご門徒様は、是非お立ち寄りください。

 

凸凹の激しい石畳をあえぎながら上り、ふらつく足で慎重に橋を渡る。建築家藤森照信氏の「大名庭園は歩くためのいわば大名の運動場。大名は、いざとなったら戦う武士だから」(「日本建築集中講義」)という説明がすっと腑(ふ)に落ちてきた。

彦根藩中興の祖と呼ばれる4代藩主井伊直興(なおおき)の治世に、下屋敷「槻(けやき)御殿」の後園としてつくられた池泉(ちせん)回遊式の玄宮(げんきゅう)園。庭づくりの核となっているのは、ここでもやはり神仙世界を象徴する鶴と亀だ。

鶴が戯れる渚を意味する鶴鳴渚。鶴の長い首に見立てた中央の巨石は、天に向かって一声をあげた姿を思わせる

魚躍沼(ぎょやくしょう)と命名された池に架かる龍臥橋(りゅうがばし)の中ほどに置かれた亀島から、北の鶴鳴渚(かくめいなぎさ)と呼ばれる中島を眺める。鶴の長い首を思わせる巨石が正面に端然と据えられている。そのそばで水鳥がさかんに水中のえさをついばもうとする姿に興がわいてくる。鶴鳴渚の北側に回り、船遊びのための船小屋があったあたりから渚越しに彦根城を眺めると、天守の白さがいっそう目の前に迫ってくるように感じられた。

池の中にある石組みは琵琶湖の岩礁「沖の白石」を模したと言われている

園内には、領内の五穀豊穣(ほうじょう)を祈って藩主自らが田植え神事をしたという水田が復元されている。水田の南側の道では、かつて馬の駆け競(くら)べをしていたといい、まつりごとの多様さがこの庭に凝縮されている感がある。

すでに隠居していた11代藩主直中(なおなか)の十四男として、槻御殿で生まれ、幼少期を過ごした13代藩主直弼(なおすけ)は、鳳翔台(ほうしょうだい)などこの庭にあった四つの茶屋すべてを用いて茶会を催したという。彦根市観光文化戦略部の三尾(みお)次郎さんは茶会の意図の一つに「家臣との価値観の共有」があったと言う。

幕末の大悪人という直弼のイメージを覆した功で彦根市の名誉市民となっている舟橋聖一の小説「花の生涯」に、直弼が著した「茶湯一会集」が引用されている。「幾度、おなじ主客と交会するとも、今日の会に、ふたたびかえらざる事を思えば、実に我が一世一度の会なり」「退出の挨拶終(おわ)れば…亭主は猶更(なおさら)のこと、客の見えざるまでも見送るなり」

戦国時代とはまた異なるであろう「一期一会」のとらえ方。そのこまやかな心配りが、この庭に息づいている。

彦根城天守を望む玄宮園。池の回りを歩くと、豪華な石組みが次々と現れ、訪れた人をもてなす大名庭園の典型だ

大名庭園 江戸時代に大名が江戸屋敷や領地の城下町などに造営した庭。東京には、旧芝離宮庭園、浜離宮庭園、六義園などが残る。地方の城下町では、玄宮園のほか、兼六園(金沢市)、後楽園(岡山市)、栗林公園(高松市)などが名高い。主に大規模な池を中心にした回遊式庭園で、茶屋やあずまやを配置している。大名自らがくつろぐだけでなく、茶の湯などを催す社交の場や政治交渉の場としても用いられた。

 

中日新聞社は4月3、4の両日、玄宮園と滋賀県米原市の日本庭園計4カ所を巡る名古屋駅発着のバスツアー(https://chunichi-tour.co.jp/tour/2034.html)を行います。かつて蓮如聖人が滞在した福田(ふくでん)寺では、浄土真宗の教えを説いた国名勝の枯山水庭園を訪ねます。同じく国名勝の青岸(せいがん)寺では力強い石組みで枯滝を表現した枯山水庭園を見学。4月にしだれ桜が見頃を迎える徳源院では、縁側から癒やしの庭を眺めます。

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