2月は仏教にとって大変大切な行事の一つ、涅槃会があります。今回はこのお話しをさせていただきます。
釈迦牟尼仏(釈尊)が亡くなられることを涅槃または入涅槃といい、釈尊が亡くなられた2月15日に釈尊を追慕してつとめる法会のことを涅槃会といいます。
釈迦は「釈迦族」、牟尼は「尊い人」、仏は「仏陀」のことで「目覚めた人」を意味します。それで、「釈迦族の尊い人で、目覚めた人」という意味になりますので、これを略して釈尊とお呼びしています。
親鸞聖人は「正信偈」で「不断煩悩得涅槃(ふだんぼうのうとくねはん)」と詠われていますが、この一句は親鸞聖人の信念をもっとも力強く言いあらわした言葉です。
親鸞聖人は「涅槃」を「往生(阿弥陀仏の浄土に生まれること)」の意味で詠われています。つまり、「涅槃」を「真実そのもの」ととらえられています。「真 実」とはいつでも、どこでも、誰にでも、ゆきわたってはたらいていて例外がないということです。「真実そのもの」がどのようにはたらいているかといえば、 『大無量寿経』に、阿弥陀如来という仏が「すべての人を例外なく浄土に往生させたい」と願われ、その誓願がすでに成就していると説いておられる、そのこと です。
親鸞聖人は、如来から賜った信心(他力の信心)を、「煩悩の身のままに涅槃の証りにいたる道に立つ」という信念として浄土を体験しておられるのです。
鶴林(かくりん)・沙羅双樹
『涅槃経』というお経は、釈尊が亡くなられる様子を詳しく説いています。お経のなかに、次のように説かれています。釈尊は、亡くなられるとき沙羅双樹(さ らそうじゅ)の木の根元におられて、2本の樹のうち1本は真っ白に枯れて鶴の白い羽のようであり、1本は青々と茂ったままでした。双樹とは、2本の樹では なく、1本の樹の根元から幹が二股に分かれたものです。青く茂っている方は「生」を意味し、白く枯れてしまった方は「死」を意味します。これは、仏教の 「生」と「死」の教えを表しています。「生」と「死」は別々のことではなく、実はひとつの出来事です。「死」は辛いことですが、自分の「死」について曖昧 であるということは、いま「生きている」ことも曖昧になってしまいます。「生」と「死」は一つだからです。