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臘扇忌(ろうせんき)のお話し

掲載日: 記事No.16

今回は、清澤満之師についてのお話しをさせていただきます。この清澤満之師は世の中にあまり知られておりませんが、明治時代を代表する思想家・哲学者です。残念なことに明治36年6月6日、41才の若さで亡くなられました。

師にちなんだ法要、『臘扇忌』が6月6日、愛知県碧南市の「西方寺」 http:// www.manshi.com/ にて勤まります。臘扇忌とは、真宗大谷派(東本願寺)の僧侶、清澤満之師のご命日法要のことです。西方寺だけでなく、真宗大谷派(東本願寺)の末寺、別院でも法要を勤める寺院があります。因みに、「臘扇」とは清澤満之師の号で、日記を『臘扇記』といいます。

清澤満之師は、文久3年に下級武士の子供として生まれました。お母さんは大変な念仏者でしたので、幼い頃からお母さんと共に大谷派の末寺の覚音寺に聞法に 出かけていました。16才で真宗の僧侶となり、19才で東京大学へ特待生で入学し、宗教哲学を専攻しました。一級下には、夏目漱石、正岡子規、もう一級下 には、沢柳政太郎がいましたが、そういう方々も誰も清澤満之師には頭が上がらないほど優秀でした。25才で東京大学の大学院に進学すると同時に予科の教授 になりましたが、26才の時に東京大学を辞し、東本願寺の関連中学(今の大谷高校)の校長に赴任します。その契機の一因には、お母さんの「東大の教授、何 するものぞ。そんなことよりも、もっと大切なことがあるだろう。この母を救ってほしい。」という真剣な願い、深い求道心があったといわれています。28才 の頃から「自分は一体何によって生きるのか」という問いを持ち、求道的な生活に入られます。求道生活の中で結核という不治の病にかかり、また、真宗大谷派 の改革の挫折や複雑な家庭事情のために苦しまねばなりませんでした。そして、36才の時に『自己とは何ぞや。是れ、人世の根本的問題なり。』と『臘扇記』 に記されています。「人世」と言う問題に真に仏教者として対応する自己の確立を求められたのです。
生きることに苦しみ、だからこそ仏法を学びました。生きることに苦しむ身として、親鸞聖人の信心に根元的に帰っていく学びでした。親鸞聖人の教えに自分自 身の人生の意義を問われたのです。その実在の苦しみの中から、親鸞聖人の信心を体中でかちとって、体全体で生き抜いていかれた方が清澤満之師です。

41年の短い生涯でしたが、充実した生涯であったと思われます。人生において学ぶべきことはすべて学び終わった、自分はこれで堂々と死んでいけるのだ、人 生の長さ短さなどはどうでもいいのだ、というものを悟った、そういう一生のように思われます。死の一週間ほど前に書かれた『我はかくの如く如来を信ず』 (『我が信念』とも呼ばれています)にその信念が強く表されています。
現代の不安で混迷な時代、仏教の智見に立って「人間の問題の根」を見抜いていた清澤満之師の思想を学ぶことが、きっと生きていくうえで大切な指針になってくる事と思います。

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