ある記事に、女性の僧侶、塚村真美さんのこんなお話しが目にとまりましたので少し要約して紹介させていただきます。
子どもたちには、新しい出来事が毎日たくさん起こります。まさに発見の連続でしょう。そんな子どもたちに比べると感受性は鈍ってきたかな、とはいうものの、大人も子どもと一緒に、たくさんの発見をしたいものですね。
ところで、「発見する」という言葉ですが、英語では「ディスカバー」といいます。では、「ディスカバー」のそもそもの意味は?というと、さて何でしょ う?ヒントは「ディス」と「カバー」です。カバーは「覆(おおい)」、ディスは「外す」ということですね。つまり、覆(おおい)を外したら、見つかった! というのが、「ディスカバー」の意味なのです。
「発見」というのは、「発明」と違って、作り出すことではありません。もともとからそこにあった物や事を見つけることです。古代の遺跡も、そこにあったものですし、新しい星といっても、前から輝いていたものです。
さて、ここで、またまた問題です。「仏法」というのは、発見されたものでしょうか?それとも発明されたものでしょうか?さて、どちらでしょう?答えは、 発見されたもの、です。発見者はお釈迦さまです。お釈迦さまは、いまから約2600年前にインドで生まれた方で、ブッダ(目覚めた人)とも呼ばれます。 「この世のことはすべて『縁』によって起こる」ということや、「すべてのことは移り変わり、いつも同じということはない」など、生きることの大切な教えを お説きになったのですが、それは、お釈迦さまがさとりを開かれる前からもそうだったし、お生まれになる前からも、ずっとそうだったのです。でも、それを解 き明かした人がいなかった。そして、それを説いたのがお釈迦さまなのです。
発見者とはそういうものでしょう。ニュートンは、りんごの落ちるのを見て、引力を発見しましたが、ニュートンが引力を発見する前からも、りんごはずっと落ちていましたし、地球に引力はあったのです。
発見するとは、覆いを外すということ。ニュートンや、ましてお釈迦さまには到底及ばない私ですが、想像するに、その瞬間は、頭の上の覆いが外れるような 感覚だったのではないか、と思われます。私の日常の発見など、微々たるものなのですが、小さい頭なりに、目の前がぱっと明るくなる感じがするのです。
仏教には「疑蓋(ぎがい)」という言葉があります。疑いの蓋という意味です。「信じる」ということは、疑いの蓋が外れることをいうのです。疑いのあるうちは、本当のことが見えないのです。
子どもと接するときは、いつも頭の蓋を外しておきましょう。だって、子どもは、いつも蓋をあけていますからね。おそらく蓋というものがまだないのでしょうね。
生活保護の偽装、個人情報の売買、原発問題の隠蔽など欺瞞に満ち満ちた世の中だからこそ、是非、大人もたちは子どもの姿を見習いたいものです。