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当寺院では、月に一度皆様にわかりやすい法話、

教育・強育・共育 「きょういく」とは?

掲載日: 記事No.45

今回も前回に続き、「ないおん」新聞に執筆された、正光寺、大畠信隆住職のお話しを紹介せていただきます。このテーマは私たちがわが子に向かう教育の姿に問いかけをされた大変考えさせられるお話しです。

あるお寺での法要。こどもたちも数人お参りくださり、法話前半はおとなに混じって一緒に聞いてくださったのでゲームを織り交ぜてお話しました。
ゲームは「後だしジャンケン」。私が何を出すかを見て・聞いてから出してもらうというもの。
まずは「あいこ」になるように。これは子どもたちもおとなも、いたって簡単です。次は「勝つ」ように。これも、あいこと同じくらいに皆さんスイスイと後 出しします。最後は「負ける」ように。ここで事態は一変。あちこちから笑い声とともに、みなさんグー・チョキ・パーの乱れうち状態です。
「どうして負けるのが難しかったのでしょう?」と尋ねると最前列に座っていた男の子が真っ先に手をあげて「いつも勝とうとしているから」と答えてくれました。
80歳ほどの方々も、まだ小学校入学前のこどもたちも、等しく「いつも勝とう」「勝ちたい」との思いの中にいることを身にもって確認していただきました。
人は誰しもが「勝ちたい」との思いをもち、勝てばよろこび、負ければ悔しがり、他者に勝とうとすることで自らを高め、あるいは安堵する。その繰り返しで 生きてしまいがちです。他者に比べ、なにか勝っているものがあれば自信をもち、自信をもてるものがみつからないと「どうせ自分なんて・・・」と卑下し、自 分自身の存在の意味を感じられなくなってしまう。あたかも当然かのように言われる「競争社会」という世の中の有り様を問い直さない中での「教育」は人間を 歪めてしまうのではないでしょうか。
私はずっと「教育」は「強育」になりがちであり、子どもたち同士が、そして子どももおとなも共に育てあう「共育」こそが仏教の教えてくださる、めざめの一つだと思っています。そのことを気づかせてくれたのも、我が子との「共育」=育ち合いの中でのことでした。
長男が小学校のころ、こんな文を書いていました。

先生あのね
ぼく、ゆめを見たよ
ゆめはほとけさまのゆめだよ
ほとけさまは、あみださまだよ
あみださまが、ぼくに言ったよ
「のぶちゃんは、のぶちゃんのままでいいからね」
ぼくはうれしかったよ

我が子を「育てよう」と思い上がり、ついつい彼を誰かと比べてしまいがちだった自分の姿を思い知らされました。
誰かと比べて勝っているという強さではなく、互いの弱さ、自分自身の弱さを認めて受け入れていける、そんな強さを育て合える心を仏さまから学んでいきたいことです。

如何でしたでしょうか。私もわが子に向かう姿が強育であったような気がしてなりません。大人独りよがりの思いが先にたっているのではと、今一度、子と共に育ちあう「共育」の有り方を考えずにはいられません。

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