今回はお勤めの最後に拝読される蓮如上人のお手紙、
の一文をお話しさせていただきます。
真宗門徒が親しんでいる「
」の は、大きく分けて信心と報謝について簡潔に述べられています。はじめに、信心を受ける者として「
の、 の男女たらんともがら」が挙げられています。ここに述べられる「無智」は、知識がない見識が足りない無智な人という意味ではありません。むしろますます知識が豊かになり、解釈や分析が鋭くなり、理解整然とした意味をもつ知識人が知識の迷理の煩悩に立つ限り、対立、排除、闘争を生むという、知識の中にひそむ暗がりに気づかない危うさが「無智」と示されています。
また、人間には、「犯す罪」と「人間であることの罪」があります。犯す罪とは警察や裁判ではっきりとしるものですが、人間であることの罪は夜の暗がりに気づくようなものです。その他、この事に気が付かない限り他に救われる道はありません。
人は気づかないと心が乱れ、ますます危うさを深め重ねることを、この御文では「
は なり」示されています。
しかし「たとい
は なりとも、かならず(阿) はすくいましますべし」と蓮如上人は明確に述べられています。つまり弥陀のこの救済こそが「これすなわち第十八の念仏往生の のこころ」だからです。つまり、わが迷いの中に深重に沈むいかなる人びとをも、阿弥陀如来は「排除しない、見捨てない、価値無き者にしない」と誓われて、一人ひとり念仏は「心が仏に届く」そして、さとりの浄土に往き生まれる仏道を歩めと願われたのです。
最後にご信心をいただいた上は、「ねてもさめても、いのちのあらんかぎりは」と御恩報謝の称名念仏の生活を送りましょう、と勧められて「あなかしこ *現代語の意味は=ああ、恐れ多い」と結ばれたのです。