皆様ご存知のように今年は宗祖親鸞聖人750回忌のご遠忌が勤まります。
中日新聞には「親鸞」が掲載されお読みになられている方も多いかと存知ます。
さて、1月29日付け中日新聞に武蔵野女子学院長、田中教照先生の大変わかりやすい記事が載っておりましたのでご紹介させていただきます。
「親鸞の言いたかったこと」
先日、私の両親が大変お世話になった方のお宅に招かれていった。そこには九十歳近くなられた女性が長男のお嫁さんに介護してもらっておられた。早くご主人を亡くされ、二人のお子さんを育ててこられたのだが、最近、アルツハイマーが進行しているとのことだった。
介護は、大変な仕事で、その場に立ち会った人でないと分からない、筆舌に尽くしがたい苦労がある。先日も、高齢者虐待が話題になったとき、介護する家族の虐待寸前までいってしまう心境を聞かせていただいた。間一髪のところなのである。
でも、その長男のお嫁さんは「たいへんですね」という私の通り一遍の言葉に、「行く道ですから」と一言で応じた。さすがであった。感心した。
「子供叱るな来た道じゃ、年寄り嫌うな行く道じゃ」の格言どおり、年寄りは私たちの未来を教えてくれている。人生は、ある時期から下っていかなければならなくなるのだ、ということを身をもって教えてくれるのがお年寄りである。
親鸞もいう。「愚者になれ」と。みずからも「愚(ぐ)禿(とく)」と称した。本物の愚者になることは、本物の賢者になることよりもむずかしい。だれも自 己愛がある以上、自己肯定に傾く。自己否定はむずかしい。だから賢者になりたがる。しかし、煩悩が邪魔をするから、偽者の賢者にしかなれない。それでも、 なお、賢者をめざす。愚者の自分が許せないから。
だが、親鸞はその偽りが許せなかった。いや、阿弥陀仏の真実の光を蒙ったことによって、隠し通すことができなくなったのだ。だから、善導大使の「自身は 現に罪悪生死の凡夫」という言葉に打たれ、ついに、「悲しきかな、愚禿(親)鸞、愛欲の広海に沈没(ちんもつ)し、名利(みょうり)の太山(たいせん)に 迷惑して」と正直に告白した。
ここに、人間の本音を語る求道者の姿を見る。人間は、建前では心を落ち着けることができない。だから、本音を理解してくれる人が欲しいのである。しか し、建前ばかりが語られる社会のなかで、腹をわって、本音で話し合える人を探すことのなんとむずかしいことか。親鸞は、法然に出会い、法然から阿弥陀仏の 本音を聞かされたのだ。「煩悩具足の凡夫を救う願がすでにここにある」と。これはお前を救う願であるが、しかし、一切の衆生(しゅじょう)が救われる願で もある、と。
阿弥陀仏の救いのなかで、はじめて安心して愚者となれる境地を得た。愚者を救う本願があるからこそ愚者に安じることができる。そして、自分が愚者であるという自覚から、相手をも愚者として恕(ゆる)すことができるのである。
なぜなら、自分自身がすでに自己の愚かさを恕して生きているのだから。そして、阿弥陀仏の救いは、私たちを摂取して捨てないという慈悲心をもって私たちを支えてくれるのであるから、すでに私たちが恕されていたのだから。
本願のこのような理解の上に、親鸞は、愚者に徹して生きる道を説いた。それは、片意地張って緊張しながら、内心の愚かさがバレはしないかとおろおろしつつ生きる生き方に比べたら、はるかにゆったりとした生き方である。
そして、そういう片意地張って生きる善人でも救われる。まして悪人はなおさら救われる。それが阿弥陀仏の誓願(約束)だから、ということに軸足をおい て、自分も阿弥陀仏のお慈悲をいただき、また、他者にもこれをすすめて、ともどもに、ゆるしあえる生き方をしようではないか。
そして、来るべき時には、自分という記憶すら失っていくのが人間であると、すべてを恕してこの世を去っていける人生にしようではないかと親鸞はいっていると思うのである。
社会が救いを失って窮屈になっている。出口のなさにストレスをためこみ、それが爆発するときは自己崩壊、人生放棄、というのではやりきれない。まず、仏 に支えられ、見護られ、お陰でなんとか生きられる、生きられなくても往生していくところは決まっている、という安心が今求められている、という気が私には してならないのだが。
如何でしょうか?大変感じることの多い話しではないでしょうか。
私たちも本当の「愚者」の自覚を持ちたいものです。