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由緒・逸話

 福田寺は千余年前に創建された天台宗の古刹「天拝山大華寺」と称され、現在の愛知県あま市北部の霊地に存在したと伝えられています。
 その後、水害により七堂伽藍とともに本堂も流失したため現在の地に再建され、天文8年(1539年)浄土真宗に改宗されました。
 天正元年(1573年)近江国江州長澤村の【注】長澤御坊福田寺より琮俊坊の曽孫、行珍法師を招き、新たな堂宇を建立し「福田寺」に改称しました。以来、浄土真宗大谷派の地方寺院として現在の第十六世住職にいたるまで親鸞聖人の法燈を掲げ続けています。

【注】長澤御坊福田寺
山号布施山、滋賀県坂田郡近江町長澤にあり、古くから息長寺、あるいは長澤御坊と呼ばれ広く天武天皇の勅願によって建立された名刹として知られています。
神功皇后、允恭天皇の皇后、敏達天皇の皇后らの菩提寺であり、宇多・村上・後白河・後鳥羽天皇など歴代の帝の帰依により勅許された菊花御紋章と見返塀などが、その歴史を物語っています。
浄土真宗に改宗されて後は、蓮如上人が三年の間滞在されるなど、別格寺院としてこの地に確たる存在を示し、昭和7年には浄土真宗本願寺派(西本願寺)の分家となっております。
余談ではありますが、明治初期、井伊直弼と時の住職が従兄弟であり、また同夫人が明治天皇の皇后の従姉妹であった為、彦根城の保存を明治天皇にお願いされたことも有名な話しとして伝えられております。

勅願書由緒御坊福田寺史跡保勝会より抜粋
逸話

現在の本堂については本堂建立に携わった現在の(株)竹中工務店の資料に大変面白い逸話が残っておりますので紹介をさせていただき、この本堂のなりたちをお知らせさせていただきます。

(株)竹中工務店資料―「遺構今昔福田寺」―より
 この寺の名が“工銭払方帳”に出て来るのは明治25年6月が最初で、それによると2月から8月までに約250人の出面があるのに、それ以後は1人もない。一方、“大福帳”には全然寺の名がないのがいかにも何かの事情があったことを示すようである。最近この寺の所在を確かめ得たので、八神、糸川の両氏とともに出かけてみた。折よく住職とも面談、昭和36年11月14日である。
 ところが住職(*第14世) はいきなり、“この本堂は竹中藤五郎さんの仕事ですよ。それはついて面白い話が残っている。”と言って愉快そうなのである。
 その話というのはこうである。現在の先々代の時、明治25年にこの本堂や庫裏を建てたのだが、建築は竹中さんにやってもらうことになった。工事が進んでゆくうちに、竹中の主人と住職との意見がどうしても一致しない点が出てきた。二人ともなかなか自説をまげない。なんでも、ここには柱を建てたがよい。 イヤ、それは無用だという争いだったらしい。そこで竹中さんも業を煮やしたと見えて、本堂を建ててしまうと、造作が残っているのに職人を引き揚げてしまった。どちらも頑固者だったらしい。子供の頃に聞いた話だが、竹中さんの名が記憶から消えないのですよ、と抹茶の碗をすすめながらも、哄笑して楽しそうである。
 これで、出面が9月からプツンと切れている理由もわかった。意見の合わなかった柱がどれかはわからないが、ただ、住職の言われる“造作”とは、われわれのいう造作ではなくて、あそらくは内陣外陣の荘厳のことであろう。と、私は自分の心に言いきかせた。いずれにしてもこの寺の本堂は遺構であるし、或は門もその一つであるかもしれない。
 また、工銭払の記載については、最初の出面は2月分として“木田 村田精造 15人 4円5銭”とある。木田は寺のある木田村のことで、その村の大工精造を使ったのであろう。15人で4円5銭だから1日の賃金は27銭である。その後、松五郎、芳次郎、万次郎など凡そ7人の名が出ている。
 この工事の大きさを知る手がかりとなるのは“板屋 田島屋庄衛門 土居葦160坪 坪当り8銭 計12.80円”という記録である。現在の本堂から推定すると土居葦の葦上げ面積は約140坪となるから、本堂だけは確かに造営したことになる。
 また、この寺に関する祝詞、祭文は遺っていないが、明治20年の東福寺方丈の釿始の祭文を、この福田寺本堂の時に流用したらしい。と、いうのはその祭文の中の“東福寺大方丈”とある横に、“福田寺本堂”と添え書きがしてあるからである。日付は当然明治25年何月吉祥日と読み替えられたであろう。建物には棟札が収納されていないが、この釿始めの祭文が確実な資料となる。
(*この点については約120年ぶりの平成15年の本堂瓦葺き替え工事の際、本堂屋根裏より発見されております。)
 建築の年代については、この本堂が明治25年を中心にして再建されたことは、確かであるが、その前年の10月が濃尾地震であったことを考えると、着工があまりにも早急なことに不審をいだく。この地震で岐阜、愛知両県がひどい被害をうけて混乱しているときに、いかにも手際のよい着工ではなかろうか。それにはそれだけの寺院側の努力があったのかも知れない。
(*この時代、福田寺は規模の大きな寺院であり、所有する田畑などは豊富でありました。福田寺過去帳を紐解きますと、濃尾震災のおりは、その田畑を売却し、お檀家の皆様に寄進を頼ることなく、いち早く建立をし、震災で苦しむ人々の復興を願い、寺が心のよりどころになるように当時の住職(12世)が全身全霊で再建に苦心した様子が克明に記載されております。)
 さて、肝心の現在の本堂は七間の型通りの間取りで、縁・向拝を除いた大きさは間口44.3尺、奥行48.7尺ほどである。木造瓦葦、向拝だけが二重である。
 この建物に近づいて向拝のあたりまで来ると、何となくせせこましい感じがする。建物の間口も高さも一般の本堂と大差がないのに何となく印象が違う。おかしいと思うのであるが、それは、廻り縁の先端に柱が建てられているからだとわかった。即ち普通に廻り縁の鼻は勾欄で納めてあるのに、ここでは縁端に4本の柱があって軒の出を支えているが、その柱が外陣の荷持柱と同じ大きさで約7寸角である上に、本柱との距離が僅かに4.8尺ほどしかないのである。このため勾欄が手摺りの形となり、従って擬宝珠もなく殺風景に見えるのである。
 このような手法はあまり見かけないが、ただ、軒の出が非常に大きいとき、桔木で支えきれないようなときに使用される例はある。たとえば遺構の一つである京都、東福寺大方丈(明治23年竣工)にこれに近い例がある。 然し東福寺の場合は、縁柱と本柱との距離は約9尺あって、更にその外回り4.5尺ほどまでが縁の延長で、ここが擬宝珠勾欄で納めてある。だから、この場合は縁の深さが強調されるだけで縁柱はあまり目にさわらないが、福田寺では、いかにも縁柱がむきだしで、せまくるしい感じを抱かせるのであろう。
 そこで私は思った。建築当時、意見が割れたというのは、この縁柱についてではなかったであろうか。震災直後であったために技術者でない寺側は必要以上に神経質になって、ここに柱を建てたかったであろう。仮にここの柱は無用だとする竹中の言い分が通ったとすれば、職人を引き揚げることは考えられない。結局竹中側が折れたと見たい。これは我田引水の解釈とも見られようが、どうもそんな気がするのである。いずれにしても昔話しの挿話を話す人も聞く人も、心なごむものがあった。時の流れはすべてを暖かく包むのである。
(*この話しにあるように住職(12世)は素人ながらに随分あれこれと補強の注文をつけたようです。素人考えでしょうか、平成13年の本堂瓦葺き替えまで仏様の安置される内陣まで鉄のワイヤーが支えの一部として入っておりました。)

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