今週、福田寺では秋の永代経が勤まります。そこで今回は赤井智顕師からお聞きした、出会いと別れについて書かせていただきます。
難しい言葉ですが「邂逅(かいこう)」と言う言葉があります。意味は「思いがけない出あい」のことで、反対に「別離」は「別れ」を意味する言葉です。
出あいなき人生、別れなき人生がないように、私たちの人生は思いがけない出あいと別れを繰り返しながら、歩んでいきます。そして出会った人と必ず別れていかねばならないように、「出会い」と「別れ」は決して切り離すことのできないものでもあります。
世間では、「出会い」にこそ意味があって大切な縁とされ、「別れ」は悲しみだけの縁であると受け止められ、敬遠されるものかもしれません。
しかし、その「出会い」が大切なのであれば、「別れ」もまた、決して悲しみだけでは終わらせてはいけない大切な縁として、受け止めていかねばならないのではないかと思います。
私たちは忘れがたい方との別れを通して、様々な仏事や法事のご縁をいただきます。この仏事・法事のご縁は、亡き方を偲んでいくとても大切な時間です。「偲」という漢字は、「人を思う」と書いて「偲」となっています。「偲ぶ」という言葉は先立って往かれた方々に思いを馳せながら、その方からいただいたご恩に心を向けていく、そんな在り方を私に教えてくれている言葉だと受けとめています。
そして亡き方を思うことは、お浄土へ先立って往かれたあの方が、いま私に何を思い、何を願ってくださっているのか、そのことを訪ねていく場でもあると思うのです。
以前、ある老師から仏事や法事のご縁は、亡き方からの「遺産相続」の場であると教えていただいたことがあります。「遺産」と聞けば、「お金」や「土地」などを連想されることが多いかもしれませんが、亡き方が残していかれたものは、そういったものだけではなく、私たちに仏縁として様々な場を残してくださっていると言われるのです。
そもそも仏事や法事の言葉には、「仏」・「法」という漢字が入っているように、「仏法と出遇う行事」なのです。私自身が仏前に身を置き、仏法を聞かせていただく。そのような仏縁としての場をいただくのが、仏事や法事に他なりません。
「亡き方を偲んでいくこと」が、私が仏法と出遇わせていただく大事な仏縁であったと気づかされる時、そのご縁が、亡き方からの願いである「南無(なむ=まかせよ)阿弥陀仏(あみだぶつ=われに)」、こそ、本当に大切な「遺産相続」と受け止めています。