がうまくいっているときは、あまり考えないものですが、ちょっと体調が悪かったり、仕事が思うようにいかなかったり、あるいは、身近のところで人間関係のトラブルがあったりするとき、ふと立ち止まって「人間の命の価値はどこにあるのか」と考えてしまいます。
最近、痛感しているのは、「人間はただ生きているというだけですごいのだ」ということです。人はよく人間の価値というものを、これまでのように、その人間が人と生まれて努力をしたりがんばったりしてどれだけのことを成し遂げたか。そういう足し算、引き算をして、その人が「成功した人生」、「ほどほどの人生」、あるいは「失敗した駄目な人生」、というふうに区分けをよくします。
しかし、仏様の教えは、人間の一生というものはそれぞれが、かけがえのない一生であって、それに松とか竹とか梅とかランクを付けるのはまちがっているとお説きになっています。
作家の五木寛之さんは、苦しんでいる人の気持ちがよく分かる小説を書かれるように感じます。恐らく、五木先生が、文字にすることが出来ないような苦しみに遭遇したことが何度もあるからではないのかと感じます。もっともそのような苦しみを経験すると心を頑なに閉ざしてしまう人が多いと思いますが、そうならなかったのは、五木先生の仏教信仰によるところが大きいと思います。五木先生は「励ましと慰めの違い」をよく強調されます。
『人間の傷を癒す言葉には二つあります。ひとつは「励まし」であり、ひとつは、「慰め」です。人間はまだ立ちあがれる余力と気力があるときに励まされると、ふたたびつよく立ちあがることができる。ところが、もう立ちあがれない、自分はもう駄目だと覚悟してしまった人間には、励ましの言葉など上滑りしてゆくだけです。「がんばれ」という言葉は戦中・戦後の言葉です。私たちはこの五十年間、ずっと「がんばれ、がんばれ」と言われつづけてきた。しかし、がんばれと言われれば言われるほどつらくなる状況もある。職場や学校で傷ついても、まだ立ち上がれる余力と気力がある場合がほとんどだ。その場合には、励ましは有効だ。しかし、仕事や学業、あるいは人間関係で深刻な壁に突き当たり、こんな苦しい状況が続くくらいならば、この世界から消えてしまいたいと思っている人にとって「がんばれ」という励ましは、傷に塩を塗り込むような行為になる。こういう人にとって必要とされるのが「慰め」だ。
そのときに大事なことはなにか。それは「励まし」ではなく「慰め」であり、もっといえば、慈悲の「悲」という言葉です。「悲」はサンスクリットで「カルナ-」といい、ため息、
き声のことです。他人の痛みが自分の痛みのように感じられるにもかかわらず、その人の痛みを自分の力でどうしても癒すことができない。その人になりかわることができない。そのことがつらくて、思わず体の底から「ああ―」という呻き声を発する。その呻き声がカルナ-です。それを仏教では「悲」と訳しました。なにも言わずに無言で涙をポロポロと流して、呻き声をあげる。なんの役に立つのかと思われそうですが、これが大きな役割を果たすような場合があるのです。』
五木先生は、「孤立した悲しみや苦痛を激励で癒すことはできない。」
そういうときにどうするか。そばに行って無言でいるだけでいいのではないか。その人の手に手を重ねて涙をこぼす。それだけでもいい。深いため息をつくこともそうだ。熱伝導の法則ではないけれど、手の
もりとともに閉ざされた悲哀や痛みが他人に伝わって していくこともあると自身の書物に書かれています。
もう、40年近く前になります。当時、私が修行していた大阪で、私の師匠が真宗本願寺派(お西)の記念大会の基調講演に五木先生をお願いされました。当時、先生は宗門の龍谷大学で仏教について勉強をされていました。師匠と伊丹空港にお迎えにあがった折、車中で先生が師匠にこの「悲」についてご質問されていたことを懐かしく思い出します。