年末となりますが皆様如何お過ごしですが。今年の漢字は「災」と清水寺の森管主が
されましたが来年はよく「福」の年でありますことを願っています。さて、今回は藍野大学短期大学、佐々木恵雲先生のお話しを紹介させていただきます。
もう二十年以上前になりますが、長女が生まれ、妻と必死に育児をしていて大いに悩んだことがあります。それは赤ちゃんだった娘が突然泣き叫ぶと、いったい何を求めて泣いているのかわからないことがあるということでした。まず、おむつが濡れているかチェックし、濡れていなければ、お腹がすいていたのかとミルクを与えますが、泣きやもうとしません。妻と二人で途方に暮れ、ただひたすら抱いて、あやしていたこともしばしばありました。赤ちゃんとのコミュニケーションがこれ程むずかしいとは、娘が生まれる前には、想像もできないことでした。
たとえばチンパンジーの場合、お母さんが子どもを産むと同時に、子どもがお母さんに手でしがみつき、樹上でいつも母子が密着しています。そのため人間の赤ちゃんのように泣くほど声を発して大人を呼ぶ必要はありません。お腹がすけば自分でおっぱいを探してお乳を飲めばいいのです。つまりチンパンジーのように母子がくっついていればコミュニケーションはほとんど必要ありません。人間の場合、赤ちゃんはあおむけで親と離れて寝ています。このように親子が離れているからこそコミュニケーションが必要となります。
一般にコミュニケーションといえば、「コミュニケーション能力」のことを指し、自分の考えを整理し、相手に分かるように過不足なく伝える能力と理解されていることが多いと思います。その場合英語を話す「言語能力」や数学のような「思考力」のように個人の持つ力、能力、素質のように捉えられていると考えられます。
しかし本来のコミュニケーション、原初のコミュニケーショとは親子という持ちつ持たれつの間で立ち現れる関係なのです。最初はうまくいきません。それは赤ちゃんが悪いわけでも、親が悪いわけでもありません。また赤ちゃんだけが人間として不完全だからでもありません。親も赤ちゃんも不完全だからこそ、お互いを補い、支え合う中で、徐々にその関係性が強くなっていき、親と子のコミュニケーショが成立するようになるのです。その場合、親として大切なことは、肉体的には赤ちゃんとして扱いますが、精神的には一個の人格として付き合うことです。私たちはついつい親が子どもを産んだのだから、親は子どもより上と思いがちです。しかし見方を変えれば親がいるから子どもが生まれるのではなく、子どもが生まれたから親になるのです。
福田寺は幼稚園を併設しておりますが、私を含め親は子をおやのエゴ、「子はこうあるべきだ」とある意味、所有物としてみているのではないのでしょうか。大事な事は親が先で子どもが後ではなく、親と子は同時に成立するのです。親と子どもは同年齢であり、一緒に成長していくのではないでしょうか。そのためには親自身が自分の未熟さ、弱さを自覚し、子どもにそれを隠すのではなく、上手く、適度に開示することが必要です。
複雑化・混迷化する現代社会である今だからこそ、親と子どもの間の本来のコミュニケーショを一刻も早く取り戻すことが求められているのではないでしょうか。