今回は平成19年11月3日、別院での人生講座で講演されました、京都大谷専
修学院長、狐野秀存(このしゅうぞん)先生のお話を紹介させていただきます。
このお話は、「目の前にあることを真っ直ぐにみつめる」「老病死を見て、悟るか
迷うかがわれわれの問題」「命を捨て寿(いのち)に住する」といった内容をわかり
やすくお話しされたものです。
戦後六十二年経ちまして、今日私どもの日暮らしというものは本当に便利であり、
物が溢れるほどあって、一面では言うことのない生活かも知れません。しかし、私ど
も日本人はそのような生活の中で何か大切なものを見失ったのではないでしょうか。
それは、目の前にいる人を真っ直ぐに見つめる眼、また相手から真っ直ぐに見つめら
れる私であると思います。
仏教というのは、目の前にあることを真っ直ぐに見る教えです。それを「正見」と言
います。「正見・正思・正語・正業・正命・正精進・正念・正定」という八つの正し
い生活の仕方の第一です。この正見というのは仏教の根本思想に対する正見であり、
お釈迦さまは八十年間の生涯を通して、終始一貫このことを教えられました。
このお釈迦さまが教えられた正見ということを端的に表しているのが、「大無量
寿経」に説かれている「見老病死 悟世非常」という言葉です。「老・病・死を見て世の非常を悟る」。
私どもは一人ひとりいろいろな人生を与えられているのですが、たとえ栄耀栄華を
誇ろうとも、また名もしられることなく生涯を送ろうとも、この一点に関してはまっ
たく平等です。ところが、問題はその次にあります。老・病・死を見て、世の非常を
知るのですが、そのことが悟りへと心が開かれていく機縁になるのか、それともます
ます迷いを深めてしまうのかということです。
お釈迦さまの最後の言葉は、「いざ、比丘たちよ、お前たちに告げよう。諸行は
壊れる性質のものである。たゆまずに努力せよ」というものであったと伝えられてい
ます。
死すべきいのちを生きているからこそ、今のこのひと時をいかに生きるのかという
ことが、いのちそのものから問われているのです。必ず死すべきいのちを生きているからこそ、うかうかと自分の人生を通り過ぎてしまう「空過」は罪なのです。
今ここに与えられたひと時ひと時のいのちを無上のものとして、本当に自分自身
にこれでよしと言えるような人生に荘厳していく。これは私ども一人ひとりに託され
た問題です。
お釈迦さまは三十五歳で覚りをひらかれ、八十歳でお亡くなりになるまで、生涯を伝道の旅に過ごされました。覚りをひらかれる時に、悪魔の誘惑をしりぞけて仏に
成られたことはご存知だと思いますが、実はお亡くなりになる前に、悪魔が再び現れるのです。「あなたは十分になすべきことをした。今あなたは年老いて、病を得てい
る。これ以上何のために苦しい旅を続けるのか。速やかに涅槃に入られたらいいではないか」とささやきます。しかし、お釈迦さまは「悪魔よ、去れ。私は年老い病んで
いるけれども、まだ与えられた命が尽きていない。命尽きるまでこの老い病んだ身を
運んでいかなければならない」と言い、悪魔の誘惑をしりぞけられます。これがお釈
迦さまの最後の旅でした。
その時、お釈迦さまがおっしゃった言葉がお経に記されています。それが「捨命住
寿(しゃみょうじゅうじゅ)」という言葉です。「命」は私どもの生死するいのちで
す。これは限りあるいのちです。その生死する命が尽きる時、それは即ち無量寿に住
する時です。阿弥陀の「寿(いのち)」が、この私の死といういのちの完結の形において成就するのです。
お釈迦さまの生死する八十年の生涯、同じように親鸞聖人の生死する九十年の生涯
が、そのまま南無阿弥陀仏の無量寿に保たれ支えられた一生であったということを、この言葉は語っています。
名古屋ごぼう1月号より抜粋